皆さま、ご機嫌麗しゅうございますか?
全国的には、桜もほころび始め、心もウキウキする季節になってきたわね。
何か新しいことや、知らなかった世界を覗いてみたくなる感覚は、読書においても感じられるのではないかしら。
そういえば、タイ人作家の作品って、日本語訳で読めるものはとても限られているのよね。
超有名作の「メナムの残照」ですら、日本では廃版になってしまっているようですものね。
そんな中、見つけたのよ!
日本で手に入るタイ系アメリカ人による小説で、しかも文庫化されているのでお手軽なの。
今日は、小説「観光(sightseeing)」(ラタウット・ラープチャルーンサップ 作、古屋美登里 訳、早川書房)のお話。
徐々に引き込まれて行く世界
「観光(sightseeing)」というタイトルを見て、最初の印象は、観光立国タイらしいわね、ということ。
これは、ホム マリだけでなく、ほとんどの方が思われるのではないかしらね。
そして、この作品は、7つの短編作品から成り立っているのだけれど、‘旅行’という面の‘観光’が描かれているのかしら?なんて思いながら、読み始めたわ。
7つの作品中、1作目から5作目の主人公は、タイ人の‘ぼく’。
でも各物語の‘ぼく’は別人で、彼らの日常の中にある世界が語られているの。
ただ、共通するのは、皆思春期から青年期で、決して裕福な環境にいるわけではないということ。
時代的には、70年代かしらね。
最初の「ガイジン」では、タイの観光地で育つ米兵とタイ人女性との子。
ホム マリは、以前、バンコクからもほど近いビーチリゾートのパタヤなどは、ベトナム戦争中、米兵の保養地だったということをお聞きしたことがあったので、そんなことを思いながら‘ぼく’の境遇を納得しながら読み進めたわ。
2作目は、母子家庭の‘ぼく’で、きっと社会では、‘悪ガキ’と一言であしらわれてしまうような立場なのだろうけれど、母子家庭になった経緯なども、タイではありがちなことだと思われるし、段々と、‘考えながら’作品を読むモードに入っていったわ。
3作目の「徴兵の日」は、とてもタイらしい題材で、一見日本人には分かりにくいかもしれないけれど、作者が描こうとしている背景は、とてもよく理解できるし、‘徴兵’のような事案は、きっと身の回りにもあるのではないかしらね。
そして、本のタイトルにもなっている「観光」。
失明間近の母と‘ぼく’の、正に‘旅行’のお話なのだけれど、ホム マリは、人としての喜びや楽しみとは何かを考えさせられたわ。
5作目は、タイに入ってきたカンボジア難民の少女、プリシラと‘ぼく’の物語。
時代は正しく、ポルポトによるカンボジアの内戦時代で、この様な人物設定ができてしまうのも、当時のタイを知る(実際にタイにいらしたかどうかは分からないけれど)作者だからではないかと思うの。
それに先述の、ベトナム戦争の名残やカンボジアであったことがベースとなった小説は、タイへの造詣を深めさせてくれる、貴重なツールであると、ホム マリは、強く思ったわ。
6作目の「こんなところで死にたくない」は、形式的には他の作品と少し違って、妻に先立たれたアメリカ人の老人が主人公ではあるのだけれど、この作品によって、小説全体が引き締められているし、作者が伝えたい、又は読者に訴えかけたいテーマが明確になっていると感じたの。
「こんなところで死にたくない」、始めは‘場所’のことかと思いながら読んでいたけれど、最後にそうではないことにハッとさせられたわ。
そして、最後の「闘鶏師」の主人公は、中学生ぐらいの女の子。
この中では、最も長編で、「闘鶏師」だけでも十分に成立する物語となっているけれど、この作品が最後にあることで、ホム マリは、「観光(sightseeing)」を読み終えた後も、人間の社会や人としての尊厳をより深く考えさせられたわね。
ホム マリは、今まで、短編小説集の良さみたいなものを感じたことが無かったのだけれど、この「観光(sightseeing)」に出逢って、ちょっと考えが変わったわね。
「観光(sightseeing)」では、むしろ短編小説だからこそ、各々の世界、それぞれの人が光を放ち、輝いていることを表現できていると思うの。
「観光(sightseeing)」をお読みになって、お考えになることは、皆さまそれぞれにあると思うけれど、‘まずはお読みになって!’と、ホム マリは、強くお薦めする一冊よ。
久しぶりに、‘名作’に巡り会えたわ。
それでは、皆さま、チョクディーカ。