皆さま、ご機嫌麗しゅうございますか?
タイ、またはバンコクと聞いて思いつく小説と言えば、三島由紀夫の作品、「暁の寺」は忘れてはならない一冊ではないかしら。
タイにいらしたことがない方でも、この作品から「暁の寺」(ワットアルン)は、タイのお寺として知っているわ!という方も多くいらっしゃると思うわ。
そこで今回は、老若男女に最もその名を知られているタイに関する作品、「暁の寺」(三島由紀夫・作、新潮文庫)のお話。
小説の内容にも触れるので、ご了承くださいね。
さすが‘文学作品’!
ところで「暁の寺」という作品、三島由紀夫の四部作、‘豊饒の海’の中の第3巻にあたる作品であること、皆様はご存知だと思うけれど、大変お恥ずかしながらホム マリ、読み始める直前まで知らなかったの…。
本屋さんでは、いきなり「暁の寺」を購入して、後でよくよく見ると‘あら第3巻?!’って書いてある、という衝撃が走ったのを覚えているわ。笑。
なので、これから「暁の寺」を読んでみようかしら、と思っていらっしゃる方には、第1巻の‘春の雪’、第2巻の‘奔馬’を先にお読みになることをお薦めするわ。
でも、ホム マリのように、第3巻である「暁の寺」から読み始めても、ストーリーは掴めるし、前2作に関わる登場人物もうまく描写されているので、違和感はなく読み進めることができるわよ。
ただやっぱり、物語の‘深み’を味わうには、前2作を読むべきだと、読み終えたときに感じたけれどね。
さて、本題の「暁の寺」だけれど、読み始めると、その文章の重厚感に圧倒されたわ。
特にここ最近の小説家の作品は、読者受けするような‘読みやすさ’を追及している感があるけれど、「暁の寺」の特に第一部は、文章を読みながら同時に脳裏に映像が浮かぶような感覚があったわね。
だから、読むスピードは、ゆっくりだったけれど、その分、一文字一文字がしっかり心に残る作品であったわ。
‘特に第一部’とお話したけれど、「暁の寺」は、大きく2部に分かれているのよ。
第一部は、主人公の本多が戦前から戦中、バンコクやインドで経験したこと、そしてその経験を通して得た‘仏教学’が描かれているの。
第二部は、戦後、本多が日本で再会したタイの姫、月光姫・ジンジャンに対する想いから繰り広げられる、ある意味‘ドロドロワールド’が描かれているわ。
一般的に、あるいは三島的に、‘崇高’とされる人間の在り方や宗教(前2作できっちりと描かれているであろう清顕や勲はこちらの生き方をされていたのね、きっと。)というような‘理想’が第一部であるなら、第二部は、人間の歳とともに現れる醜い部分やきれいごとではない本質であって、主人公の本多や、清顕や勲の生まれ変わりであるはずの月光姫・ジンジャンもこちらの人物として描かれているように、ホム マリには思えたわ。
そして最終的には、その‘理想’を追求した結果が、三島ご本人の最期に繋がったということが、「暁の寺」を読んで、なんとなく理解できた気がするの。
もちろん第二部があるから、「暁の寺」が作品として成立しているのだけれど、‘一介のタイ好き’のホム マリとしては、第一部がとても興味深かったわね。
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暁の寺
そもそも「暁の寺」(ワットアルン)というお寺は、タイの前王朝、トンブリ王朝を開いたタークシン大王によって、王室のお寺(エメラルド仏をお祭りするお寺)とされたのがきっかけで、有名になったお寺のようね。(当時は、お寺の名前も違ったものだったそうよ。)
その後、現在のチャクリー王朝となり、エメラルド仏は、ワットプラケオ(エメラルド寺院)でお祭りされるようになったけれど、涅槃仏で有名なワットポーと併せて、バンコクの三大寺院のひとつとして、今なお数えられているお寺ね。
「暁の寺」(ワットアルン)は、その名のとおり、‘暁’、夜が明けるときが最も美しいとされていて、主人公の本多も、「それは暁の寺へゆくにはもっとも好もしい正に日の出の刻限」に訪れているわ。
そして、三島は、‘朝日’と呼ばれる前の「メナムの対岸から射し初めた暁の光」をその塔に受け、一日の中で絶頂の輝きを「暁鐘」と表しているわね。
「暁の寺」(ワットアルン)の塔自体についても、繊細で緻密な描写がされていて、今目の前で見ているような感覚に陥ったわ。
ただ、現在と違って、「暁の寺」(ワットアルン)の向こうは、「トンブリの密林」ということ。
そう、この「暁の寺」を読んでいて、‘面白い’と思えるのは、戦前、タイではラマ8世時代の様子が垣間見れるところにもあるわね。(現国王は、ラマ10世でいらっしゃいますわ。)
市街地の欧州風建造物とその周辺の水田と庶民の生活、主人公の本多がタイを訪れる二年前に国号が‘シャム’から‘タイ’に変わったことなど、三島世代の作者でなければ、実体験をとおしては描けないタイの風景がそこには見えるわ。
そんな中、本多が大理石寺院で遭遇した、王族の参詣シーン。
‘ロールス・ロイス’でお越しになり、数十分後に再びそのお車でお帰りなった後の、その場が‘日常’に戻った描写から伝わる空気感は、現在にも通じるものがあるなと妙に納得できて、タイの移り変わる景色と変わらぬ景色を見ているようだったわ。
でも、「暁の寺」において、「暁の寺」(ワットアルン)のことを直接描いているのは、先ほどお話した本多が訪れるシーン、文庫本のページにしてわずか2ページ弱なのよ。
むしろ、本多がバンコク滞在中に途中で旅したインドの方が、細密に描かれていて、主人公の精神にも影響を与えていると思われるの。
そして、第二部の本多が思い出すのもインドでの出来事が多いのよ。
それなのになぜ、「暁の寺」がタイトルなのかしら?
ホム マリが思うに、本多が毛嫌いしていた菱川の言葉がヒントではないかと。
彼は、夕焼けこそが芸術であり、表現するものと説き、「…夕焼けの下の物象はみな、陶酔と恍惚のうちに飛び交わし、…そして地に落ちて死んでしまいます」と言っているわ。
つまりこれを人間の一生に当てはめるとすると、‘日中の’様々な経験や感情をすべて受け入れて融合し、‘日が沈む’という天寿の直前の一瞬に見せる「天空的規模」の表現が芸術=素晴らしいもの、としているわね。
もっと端的に言うなら、人は、最晩年が一番美しいと。
でも、まだ第一部の本多は、その考えには同意しかねているように見え、実際、日の出の時間に「暁の寺」(ワットアルン)を訪れて、その神々しさを目の当たりにしているのは、先ほどもお話したとおりよ。
その後、時は流れ、本多も様々な経験や感情を積み重ねて行くさまが第二部であって、本多が‘崇高’としていた勲の死からは、どんどんとかけ離れた人生となってゆくのね。
それは、前半でもお話したように、きっと三島自身が感じるようになって行った自分自身であり、純真で潔白な精神を全うすることこそが‘人間の美しさ’であると悟ったのではないかしら。
だから、お寺としての大役(エメラルド仏を安置する王室のお寺)は終えたけれど、今も変わらず混じりけのない輝きを放つ「暁の寺」が、この小説のポイントであって、‘豊饒の海’のテーマである‘輪廻転生’の原点であると示しているように思うの。
次の第4巻‘五人五衰’によって四部作が完成し、ほどなくして三島は最期を迎えることとなったそうだけれど、もし彼が、現在のバンコクで「暁の寺」(ワットアルン)をご覧になっていたら、何を感じ、何をそこに見出していたのか、ふと尋ねてみたくなったわ。
‘文学作品’の中に描かれたタイのお寺、「暁の寺」(ワットアルン)。
バンコクで次回、その塔を臨むとき、月光姫・ジンジャンが微笑みかけてくるような気がするわね。
それでは、皆さま、チョクディーカ。
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