皆さま、ご機嫌麗しゅうございますか?
タイ・バンコクが舞台の小説とは、時々出会うことがあって、こちらでもお話ししているものもあるけれど、ホム マリの中で、この作品をおいて、バンコクが舞台の小説は語れないと思っているの。
そして、その作品は、恋愛小説としてもホム マリの心の中で輝き続けているわ。
今日は、映画化もされ、皆さまも良くご存知だと思われる、「サヨナライツカ」(辻仁成作、幻冬舎文庫)のお話。
小説の内容に思いっきり触れるので、ご了承くださいね。
「サヨナライツカ」とは。
「サヨナライツカ」という小説にホム マリが出会ったのは、幻冬舎文庫から文庫本化されてからの2003年だったわ。
なぜはっきり覚えているかというと、その年からホム マリは、バンコクに住み始め、その時にお友達から、「バンコクに住むんだったら、これ読んだ方がいいよ。」と薦められた小説が、「サヨナライツカ」だったからなの。
もしホム マリがバンコクに住んでいなかったら、出会っていなかった小説かもしれないと思うと、とても不思議な気がするのよ。
あらすじとしては、70年代中頃のバンコク。
航空会社駐在員で、結婚間近の‘好青年’東垣内豊と、訳あってバンコクに住むバツイチ女性、真中沓子が織りなす、ほんの数か月の切ない、けれど‘永遠’のラブストーリーよ。
小説では、前半(第一部好青年)に、その数か月の若い二人の物語と、後半(第二部サヨナライツカ)に、25年から30年後の(小説が書かれた時点での)現在の二人のストーリーが描かれているわ。
そして、物語のキーとなるのが、豊の結婚相手、光子が問いかけ、作詩した‘サヨナライツカ’という詩の一部にある「死ぬとき、愛されたことを思い出す」か「愛したことを思い出す」かということね。
特に、これから「サヨナライツカ」をお読みになる方は、これから先は要注意よ!
ホム マリ独自の解釈と思い入れを語らせて頂くからね。笑。
バンコクでないと成立しない物語
恋愛小説、特に‘実らない恋’のお話なら、舞台は、秋から冬のヨーロッパの街のような、それだけで物悲しい、切なさが身に染みるような場所の方が雰囲気があるのでは?と思われる方もいらっしゃるのではないかしらね。
確かに、「サヨナライツカ」が、‘光子の実らない恋’のお話であるなら、キリッとした空気のそのような街が似合うと思うの。
それに引き換え、南国タイ・バンコクの空気は、湿っぽく、暑い中での傷心は、ピンとこないかもしれないわね。
先ず、70年代半ば、沓子が住むのは、バンコクでも‘東洋一’と謳われた、オリエンタルホテル(現・マンダリンオリエンタルホテル)だけれど、ここは、他の高級ホテルをもってしても代替が利くものではないのよ。
ホム マリは、宿泊したことはないので、その神髄は体感したことがないのだけれど、ゲストを家族のように迎え入れてくださるホスピタリティが特別で、単なる‘ホテル’ではない、‘オリエンタルワールド’があるそうよ。
物語の中で豊も感じているように、‘別世界’は、オリエンタルホテルでないと描けないものなのね。
そして、その年代に、ある程度の日本人社会が確立している街であって、現在、航空会社の副社長となった豊が、お忍びで、せいぜい1日2日で行って帰ってこられる街でなくてもならないわね。
でも何より、沓子を受け入れてくれる街、優しく包んでくれる街でないと。
さっき、‘光子のお話なら…’というようなことを少しお話したけれど、豊の婚約者であり、妻となった光子。
なぜホム マリが、彼女なら‘ヨーロッパ’と思うかというと、光子は、自らの詩の中でも、豊との最初のデートの時にも、はじめから確固として「私は愛したことを思い出す。」と意思表示しているわね。
そして、それは年月が経っても変わることはなく、夫の豊が仕事で忙しい日々を送っている中において、自らの意思で詩集を自費出版し、作品を夫にサラっと手渡しているわ。
一見、光子は‘良妻賢母’と言われた古風な女性っぽいけれど、ホム マリは、そういう光子をとても強い人で、ご自分に自信が相当ある方なんだなと感じるわ。
だから、光子なら、洗練された空気の中でも、自らを見失わず、凛として生きていけそうな気がするの。
それに対して沓子は、バンコクの豊の部屋に突然現れて、絶対的に自分の美を確信していないとできないような行動をとるわね。
でも、沓子が豊に自分を伝える手段は、何度も書き直した手紙だったわ。
しかも、投函もすべきか止めるべきか、悩んだことがありありと伝わってくる。
そんな沓子をホム マリは、とても不器用で、心にまっすぐな女性だと思うの。
だから、居るだけで辛くなるような街ではなく、何もかもを受け止めて包み込んでくれる街でないと、沓子もきっと‘また戻りたい’とは思えないと思うの。
そう、それは、バンコクという街が持つ不思議な包容力があってこその物語。
何度読んでも涙するストーリー
そもそも、婚約者がいらして結婚間近な男性と恋に落ちるのが悪い、と仰る方がいらっしゃるかもしれないわね。特に、小説を俯瞰的にお読みになる方の中には。
確かにそのとおり。
でも、この世の人と人との関りでは、理屈ではない運命があることも確かね。
その運命には、出会える人と出会えない人がいると思うけれど。
ホム マリが、「サヨナライツカ」を初めて読んだころ、あまりにも切ないストーリーに、物語の中盤(豊と沓子がアユタヤに行くあたり)から、ほぼ最後まで涙を流しながら読んでいたわ。
沓子にとっては、非情な愛、豊にとっては、苦しみの愛が、最後の最後に結ばれたのだから。
それから数年が経ち、ホム マリが久しぶりに読んでみると、涙するところが微妙に変化している自分に気付いたわ。
もちろん、ある程度ストーリーが頭にあるということはあるけれど、読者のホム マリが歳を重ねた証拠を見せられた気がしたわね。
今回、ホム マリが、最も琴線に触れたのは、沓子が豊に(恐らく病床で)書いた最後の手紙を、沓子になりきって読み、手紙の「東垣内豊さま」という最後の行に思いを込めて一瞬目を閉じ、そして再び物語の続きに行こうと目を開けたときに飛び込んできた「拝復」という二文字。
ちょうどここで、次のページをめくらないといけないのだけれど、沓子と化していたホム マリは、もうその二文字だけで何も要らないと思えるくらい幸せで、とめどなく涙が溢れてきたわ。
「サヨナライツカ」では、沓子の死は、オリエンタルホテルの支配人による手紙によってだけで知らされているけれど、その分、読まれた方によって、最期の瞬間のイメージはそれぞれだと思うの。
ホム マリの沓子は、花嫁のように幸せに満たされ、優しく微笑んでいるわよ。
最期まで添い遂げられた‘思い出’を、‘永遠の愛’という伴侶として旅だったのですものね。
物語中の現在から更に時が進み、人々のやり取りもメールやSNSとなった今。
「サヨナライツカ」は、‘手紙’の時代の最後の恋愛小説ではないかと、ホム マリは思うの。
‘手紙’は、豊も感じているように、送り手の温かみや香りまでも伝わるツールだったのよ、と語る日が来るのかしらね。
「サヨナライツカ」、単にバンコクが舞台というからだけではなく、次の世代にも読み継がれて行って欲しい恋愛小説だわ。
それでは、皆さま、チョクディーカ。